新 お気楽日記

日常を徒然なるままに。

TV navi

日に日にいい味を出しつつあるエッセー。ここまで捻くれ気味に深みのあることを書くようになったのならもうこれはモノカキになるしかないんじゃ?なーんてのはファンの身贔屓ですが、そういうこともやろうとすれば地味目に上手くこなしそうですね。本人がその気になるかどうかだけが問題だけど、そういうものには元来興味を持っていそうな人だし…っていうのがよーくわかったのが今回のエッセー。
エッセーの語源から取り上げるところは、さすが調べモノ好きなだけのことはありますねえ。
しかしこの「自分が傷つかないようにちょっとバリヤーを張る」というのは結構耳の痛い話です。別に私がたまたま堺さんと同じことを考えていた(笑)…とかっていうかっこいいモンじゃなく、誰だってそういうものだろうと思うのです。度合いはいろいろでも、いざというときのためにアレコレ画策するのは普通ですよね。仕事でも趣味でも人付き合いでも、ちょっと気を使って準備しておくのはマナーだし。
じゃあ何が耳が痛いって、それを「相手のために」とか「会社のために」とか思っているところがね。仕事をスムーズに進めるためにって思ってるところが既にイタタ。思えば全部自分が恥をかきたくないためだったりとか、みっともない思いをしたくないためだったりとか、「デキル」と思われたいためだったりとか、ひいては「さすがだねえ」と思われたいためだったりとか。それによって自分の立場向上を狙ってたりとか。無意識にそういうもんが滲み出ちゃってたりします。結果的にそれでイイ仕事ができたり、人付き合いが上手くいくならそれでいいじゃん!とも思うんですが、なんだか「傷つかないため」ってハッキリ言われると、返す言葉がございません。

なんて話はこのエッセーという話のごく一部で、どちらかと言えば前回の素振りの続き的話なんだけれども。「型」重要視派としては、ちょっと耳の痛い話でありました。
だけど「エッセー=試みる」も、予防線的発想という意味では同じじゃん?と思ったのも事実でして。「これは試しだよ」と前ふりすることで、何を書いても許されそうな空気を作るのは、やっぱり傷つきたくないから? どっちも同じことじゃんか…と思うのはちょっと乱暴な感想かもしれないけれど。
習得した型をガッツリ提示する防御壁なのか、あくまで試みだから違ってても責めないでねと張られた防衛線なのか。
どっちにしろその先出てきたものが、面白いか面白くないかだけが問題のような気はします。その意味で言えば、この堺さんの「文」はなかなか面白いので、この際守りから攻めに転じてみてもいいのではないだろうか?と思うのでした。



コーナー違うけど、ジョン・キャメロン・ミッチェルと対談できたヤマコーさんってば、すっごい嬉しかっただろうな。