新 お気楽日記

日常を徒然なるままに。

阿国に徒然と思う

なんでそんなに阿国が気になるんだろう?と自問自答。
時効警察の方はもう私好みなことも、そこそこ面白そうなことも、オダギリがかわいいこともわかったので、ある意味「来週も楽しみだな」ぐらいにしか思わないんですけれども、どーも阿国はひっかかってひっかかってしょうがない(笑)。出来の悪い子ほどかわいいみたいなもんでしょうか?
やっぱり何度思い起こしてもヒドイ。ヒドイと言ってはいけないような気がして遠慮してたんですが(誰に?)やっぱり納得いかないですねえ。原作を読み始めたんですが、これはどうもやはり違っている気がするんですよー。確かに原作に寄り添った描写と展開ではあるんですけれども、でも表面をなぞっているようにしか見えない。キャスティングなのか演技なのか、演出なのか、脚本なのかはわかりませんが(まあそれらの複合的なものでしょうが)、浅い。全6回だからしょうがないんだよ・・・とは思えない。どんなに短い構成だとしても何故そんなに阿国が踊りたいのか、「傾(かぶ)く」ってどういうことなのか。そこをすっとばしたら全6回がとんでもないことになりそうな気がするんですけど、これは老婆心?
三九郎に関して言えば、その辺の詳らかにされない部分も含めて「怪しいな」「この人何か秘めているものがあるな」という深さを感じさせるので、興味が湧くし次回に期待する部分も大きいんだけども。と考えれば肝心の阿国の方からそういうものが感じられないのは、やはり役者による部分だろうか?ま、堺ファンの言うことなので、3割減で考えるとしても(笑)。
脚本的にはわかりやすくしたかったのだと思うけれど「傾く=ふしだら」という位置づけと、「寂しい&寂しくなくなるか?」を阿国が連発する、この二つが底を浅くしているようにも思えるんですよ。阿国が寂しい少女時代を過ごしたかどうか?がまるでリアリティをもって伝わってこない。モノローグで伝えようとするのはどうかと思うよ。ああいう部分ですっかり気分が冷めるし。そういう内側から滾るものを表現できない以上、あの阿国阿国になれない。「滾るもの」が、出生によるものなのか、育ちによるものなのか、それが寂しさなのか、女としての感情なのか、どれでも良いしそういうものの積み重ねかもしれないし。でもそれらが身体の中にあって自分ではどうしようもないんだ!という部分が出てこないことには阿国阿国ではないわけで。
いろいろ思いながらも結局来週も食い入るように観るとは思うんですけどもね(笑)。
以前からこっそりちょくちょくお邪魔していたブログサイトさん。http://amelung.exblog.jp/i2
大河「組!」についても深く掘り下げてらっしゃいますが、こちらの「他者を媒介にして世界と向かい合うキャラ」であるという一文にすごく納得。山南さんと同じだな〜そういう部分。ある意味屈折した部分ですが、実はとてもストレートな気もします。志は高くとも自分ひとりではどうにもならないことを自覚している。その対象が近藤さんであり浪士組であったことに説得力があったのは、やはりその対象の方が魅力的に描かれていたから。阿国にそういう「大きさ」とか「可能性」が見えてこないと作品的にはキツイことになる。というか、既になっている?
次回からは脳内でその辺を補足しながらの鑑賞になるかも。