新 お気楽日記

日常を徒然なるままに。

想像で補完

ありがたくて嬉しいのは、オダギリファンで斎藤ファンと言ってくださる方が多いこと。いや、自分がそうだから。同じ感覚で読んでいただけるのはやっぱり嬉しいし、楽しい。頭の中に私と同じような光景が広がっているのかしらん?などと思うと、やっぱり嬉しい。
感情が高ぶってうるうる充血している目とか、ちろりとした目つきの悪さとか、ちょっと震えるぽってりとした唇とか、すらりときれいな立ち姿とか、美しい手先の動きとか、ぼそっとしたあの鼓膜をくすぐる声とか、華麗で無駄にカッコイイ殺陣とか、意外なほどに呆けた表情とか。もう数えあげたらキリがないですけど(笑)。
そういうオダギリっぽさを重ね合わせながら読んでいただけると大変ありがたい。私のかなり拙い表現が、そこんところで補われるから。
すみません。本当は読み手にそんなことを要求するようではイカンのです。「オダギリ?誰?」っていう人でも(←そんな人少ないとは思うけどもさ)。「斎藤一?誰だっけ?」っていう人でもオッケーじゃないと真っ当なモノカキではないんですけどね。まあ動機が不純だったので(笑)その時点で真っ当じゃないかもしれないけど。
でも「新選組?何それ?」はちょっときついかな〜。昔は自分もそうだったんですけどね。


実は史実に近いものを書くとき結構迷うのが、どこまで史実を説明した方が良いのか?っつー部分で。どの程度知っている人を読み手だと想定するか?別に私も詳しいわけじゃないのですけど、これは知っておかないと意味がわからんだろう?という前提はあるわけです。あと、知らなくてもわかるけど、知ってると3倍面白いんだよな〜という前提もある。そして史実的にはこうと言われているけど、こんな説もあるらしいぞ〜というのを知っているとまたまた面白かったりもして。ここまで行くともうそれは私一人の満足の問題なんですけども。そういう辻褄合わせを好んでやっている部分もあるので、どこまで説明しようかと迷うんですよねえ。説明しすぎてても退屈だし。
あと、自分が所謂プロの方の新選組および幕末小説を読んでいても、あまりにわかりきった史実を延々と説明されたりする部分があるとやっぱりすっとばしてしまうんですよねえ。そんな時世の解説よりも早く登場人物を動かさんかいっ!と。そういう部分が連続してくるともう挫折への道をゴロゴロと。読み終わんなかったりして。ある意味すっごく親切ってことなんだけどもね〜。難しいもんですな。
ただ個人的に読む分にはちょっとわかんないことが混ざってる程度のがいいですね。「?何のことだろ?」と思うような部分があったほうが、想像力は掻きたてられる。わからない部分を推測で埋めるべく、その周りの文章を読み込んだりできるし。そういう方がのめりこめるんだな〜。あと、後で史実とか前後関係を調べる楽しみもちょっとあったりして。後から「あーっ!あれはそういう意味も含んでいたのかーっ!」なんて思うネタがあったりするともう一回読んだりする楽しみもあるし。まあでも、そんなのは個人の楽しみ方の自由なので、結局相性なのかもしれないです。
私のと相性の良い方が、オダギリ斎藤を頭に思い浮かべながら読んでくださるのは、やっぱり楽しい。でも私の頭の中では、時々斎藤一佐藤浩市さんになっていたりして。沖田が時々堺さんになっていることもあるという・・・。壬生義士伝は、影響力大なんですよ〜。