新 お気楽日記

日常を徒然なるままに。

今日のお仕事

私にしては珍しく中学生に話を聞く機会を得ることができました。いやあ難しい、中学生は。小学生くらいなら身近にも結構いるし、自分の子供もいるし、話す機会もあるのでまあ雰囲気は掴めるのですが。先生も一緒ということで、大方の子供たちはお行儀良かったですね。しかし中学生が20人くらい集まると圧巻。もしかしたらもう「子供」という表現は合わないかもしれないと思った。
で、何をやっていたかと言うと、ここ地元は嘗て軍都と言われるくらい軍事施設の多かったところで、第二次世界大戦中は空襲にもあってます。そんな経緯があって、終戦後はその跡地である広大な土地を利用して大学や公園がつくられて、今となっちゃ文教地区と呼ばれるほど。ま、そういう戦跡を巡る課外授業があって、そこへお邪魔したわけなんですが。
で「中学生は難しい」という言葉が出るわけです。
中学生が難しいのではないのかもしれないけれど、あれくらいの年頃の子はいろいろですね。面倒くさそうで、こちらの話をまったく聞いていない子もいる(この辺は想定の範囲内)。まあその辺は気持ちもわかるしな(笑)。近くに生々しい戦跡が残っていることを知らなかった子がほとんどで、それについての感想は皆いろいろ聞かせてくれました。戦争という行為そのものについては「NO」という声が殆どでしたが、中には「でも一度は戦争をしないと平和のありがたみがわからないから、NOとは言えない」という話も。「アメリカと日本じゃ軍事力が違いすぎて、負けて当然だよ」という声も。正直、胸が痛みましたね。言っていることは真理かもしれない。別に、他の子が判で押したように「NO」と言うのも無意識に言わされている感があって、一概にそれを良いとは言えないです。けれどあの年齢で、その程度の知識でそういう答えを導き出していて、しかもそこに迷いがないところに胸が痛みましたね。子供を持つおばちゃんの気持ちとしてはもっと迷って欲しいのです。人の命が失われることに対してもっと迷って欲しい。答えが出せないことに苦しんで欲しいと思うのは、大人の勝手な発想なのかなあ。
戦争があったことで「生きているのに会えない人もいて、それだけで悲しい」と言っている子もいて、本当にそれぞれ。意見はいろいろあっていい。でもそれは多くの知識を得たり、沢山の人の意見を聞いて、それでも迷いながら導き出して行くものではないのかと。
大勢の子供がいたので細かく話をすることはできず、ちょっと残念な思いもありましたが、私個人としては仕事を通り越して刺激的な時間でしたね。一人の男の子が「多分凄く大変な時代だったと思うけど、俺だったらとにかく必死に生きようとしたと思う。とにかく生き抜く!」と言っていたのがとても印象的だった。戦争云々じゃなくて、皆そうやって生きてるのかもしれないね。と。
実は後からいろいろ考えてしまって、ますます迷っているのは私の方。たまたま自分が幕末に興味なんか持っちゃってるために、戊辰戦争のこととかさ。必死に生きた答えが死だったりする場合もあるわけで、ねえ土方さん。あの明治政府があったから大戦があるし、その後の今があって・・・全部繋がっているわけで。そう考えてみれば、ああいう意見がポンポンと出るというのは子供たちが素朴で純真な発想をしているからかもしれないし。でもそれだけに難しさも感じるし。ああもう。
でもやっぱり、命が失われていくことについてだけは、頭じゃなくて心で感じて欲しいです。せめて自分の子供には。