新 お気楽日記

日常を徒然なるままに。

はやぶさの話ではないです

我が家は、私の父が科学オタクみたいな人で本人も技術者。子供のころから家には天文ガイドとか、Newtonとかなんかそんなような雑誌が散らばってました。流星群が観られると言っては夜中に叩き起こされて車に布団とともに積み込まれ、なんかが見えると言ってはほんまもんの手作り(←キットとかですらない)望遠鏡で観察させられ、旅行が野辺山のパラボラを見に行く旅だったりして、夏休みの自由研究も子供心に「こんなスゴイの持って行ったら親がやったって絶対バレる!」と、不安になるくらいの研究内容だったのでした(笑)。

多分父としては、そっち方面に子供たちが進む可能性をさり気なく(?)バラまいたつもりだったんでしょうけれど、何故か二人とも出版関係というどこから遺伝してきたのかよくわかんないオチがついている今日この頃です。

それでも子供のころに刷り込まれた諸々の情報は、頭の中で結構な占有面積らしく、先日からニュースになっているはやぶさなんかを観ると、やっぱり眠ってるDNAがざわっと目を覚まし、何故だか涙が出るのでした。大気圏に突入する直前にわざわざ向きを変えて、はやぶさに地球を見せてあげたのは(地球の画像をおさめたかったという気持ちじゃないと思う)、科学技術者って本当に血の通った人間味溢れる人たちだからだと思う。

そんな研究の予算も、削減されているんだとか。もしも自分の納めている税金の使い道を、ちょっとでも指定できるのであれば、是非そちらに回していただきたいと思うのは私だけじゃないんじゃないかなあ。コレになら使って欲しい…これならば使わざるを得ない…というのを分けるのが仕分けじゃないのかしら?ムダの概念はさまざま。衣食住が事足りた状況であれば、あとは全部ムダと言えないこともないのだから、ムダという言葉で括らないで、「これになら使いたい」と思える納得の使い道を考えた方がいいんじゃないかしら。
一緒くたにしちゃいけないけど、家計だって最低限の衣食住の次は、旅行に行こうか?洋服を買おうか?美味しい魚でも食べに出かけようか?と、考えるわけで。それをムダだなんて言ってたら、毎日楽しくなくなっちゃうし。そんなことやってたら経済なんて成り立たないじゃないの。

話がそれちゃった。
今回、はやぶさを見ていてボイジャーを思い出しました。私が子供の頃に打ち上げられた探査機は、今も地球からどんどん離れて行っているわけで、そこに乗せられたゴールデンレコードをどこかの星の誰か(という概念さえ違うかもしれないけど)が人工物として認識することがあるかもしれなくて、それがもうそんな計画を考えた人の何代も先の頃に何かの成果として形になるかもしれなくて。でも、全部ムダかもしれなくて。でも、それがムダであったという判断をできる人って、一体誰?
ボイジャーはほんの一例。こういう可能性のパーセンテージを算出することもばからしいくらいのことや、自分がその成果を知ることも不可能であることに対して情熱を注ぐ…多分簡単にいえばそれがロマンというやつで、それに対して自分の支払った税金が使われるとしたら、とても嬉しいし誇りに思えるなあ。使う人が情熱と誠意を持って取り組んでたら、払いたくなっちゃうもんね。逆に使う側が自分の利や、誤魔化すことを考えているとしたら、1円だって払いたくないわけよ。
あ、またお金の話になった(笑)。いかんな。


結局何もかもが小さな小さなスパンの中での、小さな小さな価値観でしかないみたい。そう考えると、自分は「今」というほんのちょっとの時間をただひたすら一生懸命生きるしかないみたい。
ムダ使いを控えるのと、ケチは違うと思う。もしかしたら、そういう価値観を身につけるのに、父の「サイエンス要素バラ撒き育児」は意外と功を奏していたかも。いやいや、そっちの道に全然進んでなくて、父には申し訳なかった感じだけど、そのロマン好きなところはちゃんと受け継いでる気がします。私も弟も。
そんな父は、今はうちの娘二人(孫)をプラネタリウムにつれて行ったりして、第二のバラ撒きに勤しんでおるのでした。何を期待してるんだか(笑)。