新 お気楽日記

日常を徒然なるままに。

白虎隊後編

ぶつくさ言いつつも見ました後編。ええと結論から言うと泣きました…。
途中までやっぱりぶつくさ言ってたんですよ。やっぱり容保様は凛々しすぎるんじゃないか?スバスパ決断しているように見えるけれども、もっと苦悩している感じの方があってるんじゃないか?とか。聞いてはいたけど新選組は本当に完全スルーは寂しいなあとか。空が青いのに雨降ってるの?とか。その雨が大粒過ぎて、画面見難いなあ、とか。峰治たちの怪我はなんですぐに治ってしまうのだろう?とか。戦火の中での灯篭流しはかえって緊張感削ぐなあ、とか。この際西郷頼母物語にして、戦争回避したいのにできない家臣の苦悩を中心にした方が感動できるんじゃないか?とか。でも頼母は函館まで行ってはいるけど何したわけでもないよなあ?とか。あれ?そう言えば容保&定敬の別れもスルー(てか定敬の存在そのものもスルー)だったんだ?とか。なんで降伏式に半次郎が出てこんのじゃこのボケ!(←コレは結構ガックシきた)とか。中野竹子はどこー?とか。なんだか全体的にCGが変じゃない?とか。まあ言い出したらきりがない程で。なんとなーく全体に「端折るところが違うんじゃないのか?」というギモンは持ちつつ、ぐずぐず泣いている私。
でもやっぱり正直なところ、頼母邸とか、飯盛山とかの自刃シーンではあんまり泣けなかったですね。多分そこに期待しすぎたってのもあると思うけど。会津武家屋敷の蝋人形の方がずっと悲しく恐ろしく感じられたのです。でも儀三郎のお母さんには思わず「ううっ」となりましたよ。一応私も母だし。

そんな具合に突っ込みながら、断続的にぐずぐず言ってた私ですが、最後現代に戻ってきて伊東四郎さんが白虎隊士のお墓の前で「後世に伝えることができれば、彼らは皆生まれてきた意味があった」(←こんな感じのセリフ)と言ったところで号泣。そこで泣くんだ自分は…とびっくりしつつも「そうだよな」と。エンディングの曲に被りつつ朝の食卓で「会津のことを思うと日本民族は捨てたもんじゃないと言ったのは司馬遼太郎」ってナレーションを聞いてまた号泣(←そこか)。ポイントずれている気もしますが、結局この「白虎隊」は所謂白虎隊の悲劇を訴えたいわけではないのだなあ…と納得しました。
兎も角私たちの今の生活は、こういうことの延長線上に成り立っているのだなあ…という。やっぱり幕末はついこの間のことなんだよなと。そんなことを思いつつ泣いたのだと思います。

白河口とか母成峠とか「このどこかにハジメさんが…(いや次郎さんだ)」と余計なことを考えていた所為で泣き所のポイントがずれたとは、あくまで思いたくないのでした。